2012/10
女性科学者・技術者君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ]
プロローグ


近代教育発祥の地
湯島聖堂・東京医科歯科大学

 2011年7月、サッカー女子ワールドカップで日本チーム「なでしこジャパン」が世界ランキング1位のアメリカを破って初優勝した。3月11日に発生した東日本大震災と津波による大災害、加えて東京電力福島第一原子力発電所の炉心溶融の大事故が発生して意気消沈している日本にとって久しぶりの明るいニュースだった。
 撫子(なでしこ)には多くの種類があるが、ハマナデシコ、シナノナデシコなど日本固有種もある。万葉集・枕草子にも出てくる日本では古くから親しまれている花で、花言葉は純愛、可憐、貞節など女性的なイメージがあるが、快活・大胆などもあると云う。
 「なでしこ」女性の活躍はスポーツばかりでは無い。平成20年(2008年)に国立科学博物館で「なでしこたちの挑戦−日本の女性科学者技術者展」が開催された。日本初の公許女性医師・荻野吟子、初の女性医師養成機関創立者・吉岡弥生、実践栄養学の母・香川綾、日本初の女性博士・保井コノ、初の女性帝国大学入学生・黒田チカ、国際的な女性物理学者・湯浅年子ら6人の先駆的な女性を紹介している。まだ女性が差別待遇を受けている中で、科学の道に挑んだ日本女性のパイオニアたちの「絶対にあきらめない」信念、「夢を実現させた」情熱をテーマとして展示していた。
 昨年(2011年)はマリー・キュリーが1911年にノーベル化学賞を受賞してから100年になるのを記念して、国連が「世界化学年」と定め、国立科学博物館で「化学者展―ニッポンの近代化学の夜明け」が開催された。マリー・キュリーの伝記を読んでみると、100年前はフランスでさえ女性が大学で学ぶのは大変なことであり、大学の研究室では男子研究者と同じような待遇は与えられずに女性差別の中で研究を強いられたと云う。
 明治日本では男子の高等教育機関は急速に整備された。明治7年に工部省の工部大学校、明治9年に開拓使の札幌農学校、明治10年に文部省の東京大学、明治11年に内務省の駒場農学校が設立された。明治20年には東京大学と工部大学校、駒場農学校が合併して帝国大学となり、明治30年に京都帝国大学が設立され、官立大学が整備される。
 これに対し、女性の教育は遅々として進まず、多くの女性が差別に苦しみながら勉学に励んだ。
 女子教育の学校の設立を見ると、中等教育は割合早く始まるが、女子高等教育は専門学校までで、大学は戦後の新制大学以前は認可されていない。明治19年に女子師範学校が設立され、明治23年に東京女子高等師範が設立されたが、その後の女子教育機関は私学に頼るのみであった。明治33年は女子教育にとって特異な年で、女子英学塾(後の津田塾大学)、東京女子医学校(後の東京女子医科大学)、女子美術学校(後の女子美術大学)が産声をあげ、明治34年には日本女子大学校(後の日本女子大学)が設立された。
 このシリーズでは女性科学者・技術者に限定せず、女子教育に貢献した人たちにも範囲を拡大して、「なでしこたちの活躍」を取り上げてみようと思う。  
 例外的に女性科学者を代表してマリー・キュリーと女子教育の先覚者成瀬仁蔵を加えている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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